まちぐゎー案内所ゆっくるは那覇市の施設です

マチグヮーあんやたん!

ゆっくる新聞の裏面にある連載企画「 ~まちぐゎーの歴史は人物に学ぶ!~ マチグヮーあんやたん!」
昔のまちぐゎーってどうだったんだろう。どうやってまちぐゎーが出来たのか。をテーマに、まちぐゎーの重鎮に
お話を聞いています。

2016.7 ゆっくる新聞vol.1(創刊号)

●一人目の語り手


ガーブ川中央商店街組合 組合長/大城誠仁(オオシロセイジン)さん



マチグヮーと言えば「アーケード商店街」。これが出来た経緯には日本復帰後、間もなく本土の大型スーパーが進出してきた事と関係がある。当時、本土の大型スーパーと対等に競争出来る状況ではないと那覇のマチグヮーや百貨店、スーパーが一丸となり「本土の大型スーパーの沖縄進出反対」の決起大会をして関係機関に陳情行動を起こしたが、進出するスーパーの売り場面積の縮小など一部の条件は勝ち取ったものの進出を阻止することは出来ず、地元商店街への打撃は年々大きくなった。やむを得ずマチグヮーは生き残るために警告を無視して、アーケードを造るしかなかった。全体のアーケード完成までに約12,3年かかった。現在、首里城に匹敵する観光の目玉として海外県外の観光客の人気エリアとして脚光を浴びていいる。


2016.9 ゆっくる新聞vol.2

●二人目の語り手


元那覇市平和通り商店街 副会長/呉屋良彦(ゴヤヨシヒコ)さん



以前は「呉屋商店」という名前で、平和通りで家庭用品を売っていた。昔は一階がお店で二階が住宅というのがほとんどで、家族同士の交流もあって楽しかった。今は商店街に住んでいる人も少なくなっているからね。平和通りの思い出は、まだ通りに名前がなく、公募をかけて今の「平和通り」の名前をつけたことかな。昔は映画館や娯楽施設がたくさんあった。人は楽しい気分になると財布のひもが緩む。雨が降って川が氾濫して大変だったけど、それ以上の売り上げがあったからね。あの頃は桜坂も賑わっていたから、模合のお金は一日で使い切ったさぁ。「地バーリー」もやった。泊から地バーリー用品を借りて、歌も教えてもらった。仕事が終わってから練習もやったよ。練習しないと息が合わないからね。3,4年はやったはず。常に何かをやらないと通り会は成り立たない。地バーリーを復活しても面白いけどね。




2016.11 ゆっくる新聞vol.3

●三人目の語り手


元牧志公設市場組合長/高良仁徳(タカラジントク)さん


公設市場では今、建て替え問題がでているね。にぎわい広場は、水上店舗の工事の時に仮市場を作らないといけなくて、たーぶっくゎーの土地を那覇市が買ってそこに仮市場を作ったんだ。当時の市長が地主といつの間にか市場の土地を返還する約束をとりつけていて、移築先がにぎわい広場だった訳さ。あんな導線の悪い場所に移築されては、商売にならない、こっちは生活がかかってるんだ。当時の県知事は保守。移築に反対であればどの政党でもよかった。青年部長だった私は、まず革新の知事をたてる為に必死で応援したよ。お陰で圧勝!その勢いのまま市長選へと挑んで、現地建て替え案を公約にしていた革新の市長が当選。現在の場所に建て替えをする事になった。街づくりは街ぐるみで、みんなで考えないといけないね。




2017.1 ゆっくる新聞vol.4

●四人目の語り手


壺屋住民/島袋常治(シマブクロジョウジ)さん


戦前の壷屋は、静かな町だった。半農半陶で生計をたてて、ほとんどが畑だった。
沖縄戦終結後、米軍に占領されていた那覇は、立ち入り禁止地域となっていたが、復興のため陶器製造が推奨され、壷屋出身の陶工が壷屋に戻り、日用品などの製作を始め那覇復興の出発地となった。
戦後の陶器の需要は旺盛で、雇用にも大きく貢献し、壷屋に行けば仕事があると地方からたくさんの人が集まった。
薪商人、製品の販売、運送、補助作業など壷屋が経済活動の中心になった。
しかしその頃は、松の木を薪として利用し燃やしていた為、黒煙が上がり、周りの住民から公害だと訴えられる事になり、登り窯からガス窯へと変更を余儀なくされた。
その頃から、陶工が壷屋から次第に読谷など別の場所へ移って行った。それでもここで今でも頑張っている陶工がいるから壷屋は成り立っているが、那覇市としてこれから壷屋を陶器の街として育てる気がないと長続きはしないのではないか、少し心配だ。




2017.3 ゆっくる新聞vol.5

●五人目の語り手


新天地市場西口/前原トキ(マエハラトキ)さん


ここで商売をやって50年以上は経つかな。もともとは旦那と旦那のお兄さんが新天地のこの場所でお店をやっていた。私は他の店舗で縫い子をやっていて、この市場で旦那と知り合って結婚したんだよ。水上店舗の建て替えの際にお兄さんが引退するというから、旦那がそのままお店を引き継いで、それから一緒にここで仕事を創めた。昔は卸専門で婦人服を売っていたけど、注文が間に合わないぐらい忙しかったよ。よくここは浸水してね、洋服をダメにしたけど、たたき売りをして売ったよ。安いからみんなが買うので、わざと濡らして売る人もいたぐらいだよ。ここの家主が良い人で、たくさんの人に幸せになって欲しい、みんなが生活できるようにと一人の人にお店を大きく貸さなかったよ。家賃も安くしてくれてね。全盛期の時は、200名~300名の人がこの市場で働いていた。新天地で働いていた人はここで儲けて、別の場所で商売をしたり、みんな出世して、金持ちになって出て行ったんだよ。




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2017.7 ゆっくる新聞vol.6

●六人目の語り手


那覇市新栄通商店街振興組合 事務局長/喜納正文(キナマサフミ)さん



戦前のサンライズなは商店街付近は、のどかな田園風景が広がっていた。戦後、現開南バス停近くにガジマルの木がありその木陰を利用して、各地から野菜や雑貨を持ってきて道路に広げ、それを売ったり交換したりしたのがこの商店街の始まり。いつの間にか百人近い人々が商いをするようになり、道路も占有する事態となる。色々と解決しないといけない問題が多くなり、必要性に迫られ通り会を結成。新栄通りの名称は、戦後のどさくさから1日でも早く抜け出し、ここらあたりで心気一転新しく栄えていく通り会として会員みんなで団結して頑張り進んで行こうという意味から「新栄通り」とつけられた。バス停が開南に出来てからは、南部方面から那覇に来る客は開南でバスを降り、サンライズなは商店街(新栄通り)を通り平和通り、市場、国際通りへと人は流れた。「街」はすぐに出来るようなものではない。このような歴史があってこの街が出来た事をたくさんの人に知ってもらいたい。




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2017.11 ゆっくる新聞vol.7
●七人目の語り手
サハラ宝石/佐原 清子さん(サハラ キヨコ)さん


昔は市場中央通りで祖母がお店をやっていて、メリケン粉や砂糖を売っていた。盆正月は忙しくて、小学生だった私もお手伝いをさせられたよ。ここは雨が降ると雨靴を履かないと歩けないほどの道でガーブ川もあるからよく氾濫してね。腰ぐらいまで水が溜まり、祖母は歳をとっていたため、危ないので浮島ホテルや国映館に避難をさせたりした。今はアーケードがあるから本当に助かってる。祖母の引退で昭和48年2月、サハラ宝石を開店し、あの頃この通りは開南バス停から来る南部のお客さんでごった返していた。忙しい時は食事も出来ないほど、お客さんの注文に追われていた。お客の流れが変わったのは、新都心が出来てからかな。マチグヮーには無料駐車場がないからね。観光客は増えたけど、また昔みたいに地元客で賑わうマチグヮーになるといいね。




2018.2 ゆっくる新聞vol.8
●八人目の語り手
我部商店/我部嘉宏(ガブ ヨシヒロ)さん


小さい頃のマチグヮーの思い出は、台風の時のガーブ川の氾濫。
家がよく浸水し、ひどい時には150cmぐらい床上浸水してそれを二階から見ていたのを覚えている。
台風になるとそんな具合で家に入れないから、避難がてら映画館に映画を見に行った。それが子供ながらに嬉しかったね。
学生の頃は、水上店舗の二階に玉突き場、三階に卓球場があって、学生のたまり場だったのでそこでよく遊んでいたね。
昔は市場の人が仕事を終えてから買い物に来るので、親は遅くまで店を開けていた。
日曜日は山原から買い出しに来るお客さんもいたから、年中無休で店を開けていた。
大晦日も仕事帰りにお客が買い物に来るので、すごい人でお店も繫盛。おかげで正月の除夜の鐘は、お店で聞いたのを覚えているよ。

2018.7 ゆっくる新聞vol.9
●九人目の語り手
ルイ フランセ 二代目/平良 武(タイラ タケシ)さん

こっちに来たのは昭和23年、僕が小学校五年生の時。
しばらくして公設市場が出来て、商店街が出来ていった。現在のてんぶす館がある所に国際劇場という映画館と、
平和通りの入り口に平和館というのがあった。青空天井の舞台で、雨が降ったら濡れたね。
神里原通りには、太陽劇場っていう映画館があった。他にも、山形屋、りうぼうがあって、神里原が商業の中心地になるような感じだった。
グランドオリオン通りの後ろ側に、米軍の資材置き場があって、僕ら子供だからタイプライターの文字だけ取って、それをビー玉代わりに遊んでいたね。壺屋の辺りは、夜になるとホタルでいっぱいだった。歌(童謡・じんじん)にあるくらいだから、ホタルの産地だったんじゃないかな。
戦後すぐは、ここに人がいなかったから、ホタルにとって住みやすかったんだろうね。
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